昭和48年8月17日  夜の御理解
秋田健一郎


 誰でも幸せを願わない者はない。ただ、「幸福になりたい。」、「幸福になりたい。」と思う。思うから、一生懸命勉強もしなければならないし、一生懸命働いてお金も貯めなければならない。
「幸せにならねばならない。」、「幸福になりたい。」と言うて、一生懸命勉強したり、お金も貯めた。けれども、幸せというものは、そういうことで幸せになれることではないということが分かる。
だから、それがね、早く分かる人と、それから、一生分からない人とがあるわけなんです。そして、信心に縁を頂いたということは、そういう意味でも大変有り難いこと。
「あの人は幸せそうだ。」とか、「あの人は本当に不幸せな人だ。」と、こう言ったりしますけれども、問題はね、いかに幸せそうであっても、本人自身が幸せと感じていなかったら、幸せではないのです。
「もう、私のような『業』の深い者はあるだろうか。」、「私のように、本当、不幸せな者は、『ふ』の悪い者はおらんだろう。」と、例えば、言うておる人がある。
「本当に、私のような幸せな者が、またあるじゃろうか」と言うて、喜びに浸っている人がある。
それを見ると、私のような幸せな人があるだろうかと言う人が、まあ言うならなんでしょうかね、「月の差し込むあばら家に、主と二人で何とかする」というような歌がありますように、そういう生活をしておっても、もう幸せを満喫しながら生活しておるという人がおる。
御殿のようなお家に住まわしてもろうたり、それこそ、山海の珍味を頂いて、身には何万も何十万もするような着物を着たり、宝石で身を飾っておってもです、もう、いつもが不平であり、不足であり、イライラであり、モヤモヤであり、脇から見たら、まあ、本当に幸せそうに見えるんだけれども、本人が不平があり不足があり、しておったら、ね、もう、朝から晩まで腹ばっかり立てとんならんちゅうなら、もう、どれだけの金を持っておっても、埋まっておっても、幸せでないことが分かるのです。
問題は、私自身がです、もう本当に私が日本一の幸せ者だろうと思える人が幸せなんです。
だから、そういう人の内容をよく分かってみるとです、例えば、魚が水の中に泳いでおっても、水のおかげで生きておるとも、えー、そういうことを感じ分からないであろうように、それを上から眺めておって私達が見ると、それが良く分かる。そこで、水からちょっとこう出されてみると、もう、息をすることすら、生きておることすらが出来ないということをです、はずれてみて分かる。
私、今日ここで、えー、何とかちゅう先生、有名な先生です。うん、福田順三郎(?)という先生の御理解なさっておられるのを、ちょっと開いておるところに、そういう意味のことが書いてあった。えー、「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」と。
だから、ちょうど、魚が水の中に、水を掻き分けて泳いでいるように、私どもは、そういう神様の御神徳あふれる中に生活させて頂いておる。そこに、例えば、どう暑かろうが寒かろうが、いわゆる御神徳の中にあるんだということが、理屈の上に分かり、それを実感として分からせて頂けれるようなところまで信心を進めた人が、私は、本当の、だから、幸せじゃなかろうかと、こう思うのです。
だから、信心一つでもそりゃ、本を読めばそんなことが書いてあるから分かる。なるほど分かるけれども、実感として、なるほど「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」という実感、それが頂けるために、お道の信心は稽古するんだということが言えれる。
今、末永先生が申しておりましたように、「本当に、金光様から、『これをお願いいたします』と言われ、それこそ、身が縮むようにあった」(笑い)と、こう言う。
それは、或る先生の思い出話か何かであったそうですけれども、なら、末永先生自身も、自分の心の中に、生き生きとして有り難いときには、親先生から言われた御用も、若先生から言われた御用も同んなじに有り難い。
まあ、それをひっくり返して言うと、まあ、親先生から言われても有り難くない。ましてや、若先生から言われたら、なおさら有り難くないといったようなこともあってはじめて、そこんにきが分かるんだと。一遍そこを通らして頂いておるということが有り難い。
神の中を分けて通る、通っておるような、そういう実感というものが、信心さして頂いておると次第に分かって来る。そこから、私は、はじめて、えー、自分の周囲、周辺を眺めただけでも、「あれも有り難い。これもおかげだ」と分からしてもらうときに、本当に有り難い。そこには、問題は有り難いとか、えー、不平とか不足とかというようなものは影をひそめてしまっておる。そういう実感を、日々、そういう有り難い世界を広げていくというところに信心の稽古の焦点を置かせて頂くとです、本当の幸せ、人間の私こそが、もう本当に、日本一の幸せ者であろうという実感が涌いて来るおかげが受けられる。
そういう、例えば、有り難いとか幸せを感じれれるというところからです、ね、「それだけではならん。この有り難い心、この幸せな心、そういう有り難いことを分からせて頂いたお礼の印に御用がさせてもらわなければあい済まん。」ということになって来るときに、その御用というものが、生き生きとして来る。
それがきつい仕事であればある程、ね、うーん、その御用そのものが、神様のお礼の印に出来るようになる生活。
私どもが一生働かずして食べられるということは無い。働かなければならない。その働きそのものを、だから、神様に、こうしておかげを頂いておるお礼の印だということが分かり、ね、そういう心の状態に、勉強が出来、いよいよ、仕事が順調に、そういう、心の上に、ね、感じさせて頂く心が幸せ。
「幸」という字は、「土」という字を書いて、「ハ」という字を書いて、そして、下の方へ「干す」という字が書いてある。ね。そこで、その「幸」という字を今度は、反対に真っ逆さまにして見る。そして、やっぱり、「土」はどこか。同んなじことである。上から見ても「幸」、下から見ても「幸」。「幸」とは、どういう場合、どういう場合であっても有り難いと感じれれるのが人間の「幸」。そういう幸せをつかんだとき、そういう幸せを自分のものにしたときに、そういう心におかげは益々頂ける。
それは、お道の信心で言う「和賀心」なのである。
どんな場合であっても喜びが途切れない。えー、上向いておるときも「幸」、逆さまにされておるときも「幸」。ね。そういう「幸」を頂きたい。
これは、信心によらなければ出来ることではない。ただ、信心が無くても「いやあ、私は幸せだ」と、こう言っておる人が、もし「不平が無いか。不足が無いか。」と言うと、不平不足がもしあるとするなら、「あなたが幸せと言っておる幸せは、本当なものではない。」。
ほんなら、そこで、不平不足も無い「幸せだ」と言っておる人に、おかげが伴のうて来なかったら、それも本当の「幸せ」ではない。
今日、私が言うような、上から見ても「幸」、下から見ても「幸」といったような心の状態にならせて頂くとき、はじめて「おかげは和賀心にある」と仰る限りない人間の幸せな条件が足ろうて来る。
そういう「幸せ」を獲得するということが、信心での、願いであり、それがまた、天地の親神様の願いでもあるということ。
今日は、「幸せ」ということについて聞いて頂きました。
      どうぞ